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「よきサマリア人のたとえ 」- 聖書学は面白い

先日のヤパチースタッフキックオフで、
uzullaさんが「よきサマリア人」の話を知ってくださいと言っていたので、
私が加藤隆著"『新約聖書』の「たとえ」を解く"を読んで得た知識を、
その本を読まないであろう人に向けて発信します。
ようはパクリ記事です。

ところで私は信仰をもっておらず、
宗教学を漫画アニメを楽しむようなものだと捉えてますので、
信仰を持っている人がこのブログを大目に見てくれることを願っています。

よきサマリア人のたとえ(加藤隆訳)

ある人がエルサレムからエリコへ下って行って、強盗たちに出くわした。   
彼らは彼の着物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しの状態にして行ってしまった。  
偶々ある祭司がその道を下ってきて、彼を見て、向こう側を通って行った。  
同様に、レビ人もその場所に来たが、見て、向こう側を通って行った。  
旅をしているあるサマリア人が彼のところへ来て、見て、憐れんだ。  
そして近づいて彼の傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、包帯を巻き、  
彼を自分の家畜に乗せ、彼を宿屋に連れて行き、彼の世話をした。  
そして翌日、二デナリオンを取り出して、宿屋の主人に与えて言った。  
<彼の世話をしてくれ。あなたがこれ以上に費やしたものは、
私が戻ってくるときに私があなたに返済するだろう。>

表解説

このたとえ話は、「困っている人には優しくしましょう。」
という趣旨の教訓をもつということが、世の中ではまかり通っています。
皆さんも、困っている人には優しくしましょう。
サマリア人は良い人だというショートストーリーだと思われます。

裏解説

裏解説とか言うと、都市伝説的解釈に思えてしまいますが、
私はこちらの解釈の方が正確だと思っています。
しかし理由を述べると書籍をまるまるパクることになるので、
結論だけ書いてしまいます。

この被害者であるユダヤ人は、村八分のようなものにあっている人物です。
そのため、ユダヤ人コミュニティの権威である、祭司、レビ人(律法学者)が、
サマリア人のように被害者を救うことは、社会的に不可能だった。
一方、サマリア人はユダヤのコミュニティの外の人です。
被害者を救済することに、労力とお金以外の障害がありません。

ユダヤ教において権威のある人間は、労力とお金に余裕があっても、できないことがある。
社会のしがらみのようなものをこのたとえ話では伝えようとしているのです。

実際、このたとえ話は、ユダヤ人であるところのイエスが語ったものとされていて、
キリスト教の教義というより、彼が生前実施しようとしていた、
ユダヤ教の改革運動のようなものを行う上での発言であり、
ユダヤ教社会について何かを言及しようとしたと見るのが妥当です。

気になることは

じゃあ、被害者が村八分にあっていたという証拠がどこにあるんだという話になりますよね。
その辺も詳しく書きたいところなんですが、加藤隆先生の著書に書かれているので、
買って読んでください。図書館にもたまにおいてあるので、無料で読めるかもしれません。
断片だけ示しておくと、

  • 具体的な場所設定があり、その場所には意味がある
  • 強盗の手口は、金目当てとは思えない手口になっている
  • 半殺しにするくらいなら殺してしまえばよいはず

今回私が言いたかったことは

キックオフミーティングでヤパチーのスタッフに向けて、
uzullaさんがよきサマリア人の話を知ってくださいと言った件について。

よきサマリア人の例えに則るのであれば、労力とお金の問題が解決していても、
立場的にできないこともあるので、無理はしないでよいというような事が、
uzullaさんの発言の背景にあると勝手に深読みしたということです。
逆に、社会的立場が許し、お金と労力に余裕があれば協力しましょう。
こういう事は、その他の問題解決においても同様です。

というわけで、社会における義務ではない何かをする機会に直面したら、
みなさん、この「よきサマリア人」のたとえを思い出してください。

また、加藤隆先生の著書が好きな方がいたら、友達になってください。