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karashi39とはいったい

夢と希望と明日と正義を讃える

カバー曲のカラオケにおけるエンターテイメント性について

ことの起こり

私は毎週末、誰からも誘われなければ一人でカラオケに行っています。

きたる他人との交流的カラオケに備えて芸を磨いているのです。

そして、ヒトカラに行くと、カラオケならではのCMというものを拝むことが多い。

 

そこで、とある女性歌手が、

私がカバーした曲をカラオケで歌ってくれというCMが流れたのです。

音楽関係に素人に毛が生えた程度の感性を持つ私は、

そこで、なにかこれはまずいぞ、という気持ちになったのでした。

 

音楽の二面性について

いわずもがな、音楽には音楽芸術とエンターテイメントという側面があります。

音楽芸術というと冗長なので、本記事には芸術とだけ表現します。

決してエンターテイメントのもつ芸術性を否定するわけではありません。

表記の問題です。

 

そして大事なことですが、音楽は必ずしもその両方を満たす必要はないと思います。

というようなことは誰かがどこかで主張してると思うので詳細は省略。

 

カバー曲の芸術的価値について

音楽の芸術性には様々な要素がありますが、ことカバー曲に限っては、

その歌い手の歌唱力の独自性が中心的な役割を果たします。

このことだけで、この記事の言わんとしている事がわかると思います。

 

わかりやすいのは君が代のカバー(?)。

国際的スポーツの場では、よくポピュラーな歌手が君が代を斉唱します。

故・忌野清志郎さん、桑田佳祐さん、Gacktさん等、数えだしたらきりがない。

彼らはその独特で高度な歌唱力で、君が代のもつ価値にくわえ、

さらなる付加価値を与えています。

 

故・グレンミラーは、ビッグバンドという歌のない形式の音楽で、

歌唱力ではなく編曲能力で独自性を輝かせた人物の一人。

カバーの付加価値は歌だけではないという例です。

 

曲的アレンジだけではなく、歌詞のアレンジという荒技を見せるアーティストもいる。

Original Love田島貴男さんは、若い人は知らない古い洋楽に、

すばらしい和訳歌詞をつけてカバーしたアルバムを出しました。

他にも同じ事をしている人はいるでしょう。とにかく歌詞も立派な芸術です。

 

カバー曲のエンターテイメント的価値について

音楽的芸術性に優れていなくても、エンターテイメントとして成立するカバーがある。

有名な例はEXILEChoo Choo TRAINでしょう。

言わずと知れたZOOの名曲、しかし、若い人にとってはEXILEのものですね。

 

私はエンターテイメント的音楽に疎いので、詳しい事は説明できませんが、

少なくともEXILEChoo Choo TRAINは、歌唱だけとってみれば、

ただ歌の上手い人がカバーした程度のものと言わざるを得ない。

歌の上手い友達がカラオケで歌ってるのと一緒だと思います。

 

歌が上手い事はすごい事です。

ただ、清志郎さんや桑田さん、徳永英明さんのような独自性があるかと言われれば、

EXILEに関しては疑問符をつけざるを得ない。

 

それでもカバー曲としてのEXILEChoo Choo TRAINが今の地位を得ているのは、

歌唱以外というか、総合的にエンターテイメントとして優れていたから。

あれだけ人数がいて、歌うのは2人だけという体制こそが、

彼らは総合的なエンターテイメントを提供する姿勢を自覚していると示していますね。

 

ここで言いたい事は、エンターテイメント的カバーの否定ではなく、

むしろ逆、エンターテイメント性のあるカバーは良いものだという事です。

 

芸術的カバー曲のカラオケでの楽しみ方

そういう曲があるのか不明ですが、

清志郎さんがカバーした曲なら清志郎さんのモノマネで歌って、

はじめてカラオケでカバー曲を歌う事に意味が出てきます。

 

編曲の優れたカバーや、歌詞のアレンジのカバー等は、

モノマネをしなくても、その芸術性を享受しながらカラオケを楽しめます。

 

それらをしないなら、原曲を歌えばいいじゃないですか。

キーやテンポが極端に違って歌えない時以外は、原曲ですみます。

そう思いませんか?

 

というより、そういった価値を提供できない曲を、

カラオケ曲として配信する姿勢に問題を感じます。

 

たしかに現代の人気歌手が歌ったから、その歌手の名前で検索することはある。

いつしか原曲アーティストは忘れ去られ、カバー歌手の名前だけが残る。

でもそれを許していたら、カラオケという範疇だけで言えば、

原曲側からしたら、泥棒行為に見えかねない。

 

エンターテイメント的カバー曲のカラオケでの楽しみ方

これは、私がやはりこの方面に明るくないので、詳細が雑なんですが、

EXILEは存在自体がエンターテイメントみたいな人たちなので、

彼らのMVが流れるだけで、カラオケ的に価値が出てきますよね。

 

酔っ払ったりすると、人数が多ければ歌うカラオケだけではなく、

踊るカラオケとかに変化していき、今日も平和な日本、という感じがして良い。

 

MVっていうのもありますね。MVの芸術性は音楽的芸術性ではなく、

もっと広範なエンターテイメントとしての価値だと思いますが、

MVが素晴らしいなら、それはカラオケの由緒正しき楽しみ方として成立する。

 

ことEXILEに関しては、もはや神格化して尊敬している人も多く、

EXILEChoo Choo TRAINを歌うというだけで、

宗教的感覚にも似た気持ちの良さを味わうことができます。

 

逆にいうと、EXILEくらい存在そのものがエンターテイメントになっていないと、

カバー曲のカラオケ配信は前述の作品泥棒に該当する可能性がある。

 

消えない違和感

話はカラオケでみたCMに戻ります。

CMで勧められたカバー曲は、どう考えても歌唱力に重点をおいたものでした。

アレンジなども工夫されているのでしょうが、その歌手の歌でないと成立しない。

ためしに歌ってみたのですが、どうもMVがあるわけでもない。

 

しかもそのカバー歌手は前述の大物歌手のような独自性のある歌声ではなく、

ただちょっといい声で歌が綺麗で上手というような人なので、

モノマネ的な楽しみ方もできない。

ネームバリューはそれなりにある方なのですが。 

 

私は思いました。

いったいこの人のカバー曲をカラオケで配信する目的はなんなんだ?

芸術もエンターテイメントも捨てて、商売に走ったら、

日本の音楽産業はいよいよ終わりだと思うんですよ。

少なくともカラオケ方面では終わっている。

 

唐突な結論

結局この話は何が言いたいのかというと、

カラオケ産業が腐った原因は、とりわけカラオケ需要の減退だと思うということ。

みなさん、10〜20年前に比べてカラオケに行く頻度が激減してませんか?

 

みなさんのお仕事を例に出しましょう。

楽しく働くというのは理想で、生きるために日銭を稼ぐみたいな事ありますよね。

カラオケ産業も今そういう時期を迎えてるのではないかと、

まったく業界に縁のない門外漢の私は雑に推測したのです。

 

カラオケ産業側的には、泥棒行為でもなんでも、

産業が生き延びるためにやらなければいけないという現実があるのではないか。

という一方的かつ勝手な推測が私の頭に突然わいてきました。

 

というわけで、みなさん、日本の代表的芸術の一角を守るため、

カラオケにいきませんか。

 

<<補足>>

タイトルが記事の趣旨を表していないという意味で不適切だったので変えました。

「カバー曲のエンターテイメント性について」から、

「カバー曲のカラオケにおけるエンターテイメント性について」に変更。

(2016/4/21)