karashi39とはいったい

夢と希望と明日と正義を讃える

死のリスクに関して

死ぬリスクDeath Riskについて考えよう。仮に Drとする。と言っても、たいへん雑な話をするつもりなので、覚悟してほしい。

基本の式

死ぬ理由ってのは大雑把に言うと、先天的な健康問題、後天的な健康問題、事故、に分類できる。

  • 先天的Congenitalな健康問題っていうのは、持病だとか、寿命も含んでいる。Riskであるからrをくっつけて、仮に  Cr とする。
  • 後天的な健康問題とは要するに生活習慣病Lifestyle-related diseasesなので、上にならい  Lr とする。
  • 事故Accidentは、交通事故だとか、犯罪の被害だとか、戦争も含むけども、 Arとする。

なので、こういう風に表現する。

 (1):  Dr = Cr + Lr + Ar

こういう式を嫌だなあと思う人がいるのはわかる。しかしこれの実態は数学的なものではなく概念的なもの、つまり

死ぬリスク = 先天性健康リスク + 生活習慣病リスク + 事故リスク

という小学生でも考えそうなしょぼい文字式をかっこよく、かつ省エネ(文字が少なくて楽)にしたものにしか過ぎないので、今は了承してほしい。

細かいことを言う人向けのことを考えると

ストレスについて考える

ストレス性疾患というものがある。死に関わる場合もあるので、考えたい。ストレスの値をとりあえず sとする。

たとえば、ストレスに弱い人は、ストレス過剰な場合にストレス性疾患、つまりメンタルヘルスが悪化して、自殺してしまったりする。自殺とも限らない。ストレス性の病はたくさんある。胃潰瘍とか。胃潰瘍で死ぬ人はいないかもしれないが...。とにかく、  sが増加すると、 Crが増加する場合がある。

しかし、関係がない先天性疾患もあるので、 Crをストレス性であるMental Health Problem Risk( Mr)と、ストレスに依存しないフィジカルの問題Physical Health Problem Risk( Pr)にわける。  s の増加に伴い増加するのは  Mr だ。

と、いうわけで

 (2): Cr = Mr + Pr

 (3): Dr = Mr + Pr + Lr + Ar

このあたりで、小文字のr要るか?という気持ちが生じる。が、かっこいいので、残す。

ストレスに関して式を整理してみる

  •  Mrは、 sが増えると同時に増えるものである

と言ったが、逆もある。生活習慣というものは、基本的にだらしがないものであり、人生の楽しみ、すなわちストレスを軽減するために行なっている。それをやり過ぎて病気になる。ということは、

  •  Lrは、 sが増えると同時に減るものである

因果関係的には間違った表現かもしれないが、今は置いておこう。結局、ほぼ同時に増減するのは変わりがないのだから。

このあたりを、 sを変数として、 sにかかる係数を用いて表現しようと思う。

まず、

 (4): Mr = \mu \cdot s

とした。 \mu (ミュー)はMのギリシャ小文字だ。この  \mu を、メンタルヘルス係数などと呼ぼう。なぜギリシャ小文字にするか。それは雰囲気である。僕は素人である。

次に、

 (5): Lr = -\lambda \cdot s

とした。 \lambda (ラムダ)はLのギリシャ小文字だ。多分。わからなかった。sが増えると減ることを表現したかったので、マイナスをつけた。生活習慣病係数である。再度整理しよう。

 (6): Dr = \mu \cdot s + Pr - \lambda \cdot s+ Ar

いろいろと並べ替えて、

 (7): Dr = Pr + Ar + (\mu -\lambda)s

この最後の式が、結論に大きく、大きーーーく関わってくる。

死のリスクについて再考

 Dr = Pr + Ar + (\mu -\lambda)s という式を手に入れることができた。ザ・じんるいのえいち、である。

順に見ていこう。 先天的なフィジカル健康リスクというのは、おそらく、どうにもならないか、どうにかなるかの2通りである。諦めるか、金を積んで治すかしかない。金がない僕には関係がない。 事故のリスクは、どうしようもない。とりあえず、家の外に出ないことはたいへん重要であるが、これも変えようと思って変えられるものではない気がする。 つまり、  Pr Ar は定数項なのである。いじれない。

なので、僕らが着目すべきは変数をもつ項である   (\mu -\lambda)s生活習慣病とストレス性疾患である。ストレス性疾患も生活習慣病と言えるが...ストレスによって増えるもの、減るものを無理やり分けたと思ってほしい。

死のリスクの第三項について

変数を持つ項について考察し、そこに対する努力をする。当然である。変えられないものを頑張るよりも、変えられるものを変えるべきだ。

ここで問題になるのは係数  (\mu - \lambda) の符号だ。プラスかマイナスか、というとわかりにくいが、どちらが大きいかと言うことだ。

ストレスは嫌なものだが、係数が負の値をとるのであれば、ストレスはどんどん増加させた方が死のリスクは減ると言うことになる。係数が正なら、ストレス解消の方向に舵を切った方が良い。

ただし、ストレスがあまり発生しない人は、気にする必要がないのである。 (\mu - \lambda)s という項のとる数値は限りなく小さく、どうでもよい。好きに生きればいいと思う。

僕の場合について大雑把なことを言うと、僕はおそらくメンタルヘルス傾向の人間である。ストレスによって何度も死にそうになっているので、どう考えても  \mu が大きい。ストレス性の喘息で呼吸困難になったこともある。

すると、僕はストレスを増やせば増やすほど死のリスクが高まるタイプの人間なのであり、生活習慣病を恐れることなく、ストレスの軽減に務めた方が得策であると考える。

まとめ

世の中には、生活習慣病になってまで酒やタバコをやるのは愚かだとかいう話も、酒やタバコをやめてまで健康になるのは愚かだという話もあるが、実はみんな自分だけの話をしているのであり、どちらも正しいのだと思われる。人それぞれ、係数の正負の符号やら、ストレスの絶対値が違うのである。

きちんと自己分析して、他人に迷惑をかけない範囲で、自分に合った方法で長寿に向かって生きれば良いと思うし、立場が逆になった場合は他人から迷惑をかけられた時には流石に文句言うけど、そうじゃない時に過剰にああだこうだ言ってくるというのは、人の違いを理解していない愚かな行為だと思う。人の違いを知らないことを、教養がない、と表現したりもする。

なお、僕は医者ではないし、医療の研究をする立場にもない。僕は無知なのでわかっていないが、もしかするとこの二者はイコールかもしれない。

とにかく、僕はこの記事を真に受けてしまった人の行動の責任は取れない。僕は自分が酒とタバコをやめない理由を正当化するためにこのような記事を書いたのであった。 とはいえ生活習慣病リスクを減らしながらストレス解消ができるならば教えてほしいものだ。酒やタバコというストレス軽減手段による副作用だって認識しているしその大きさもバカにできない。ただ、僕の場合、それは事故リスク  Ar を増加させるものとしか思えないから、あまりやりたくないのだけども。

消費税をあげるなら...

諸君はお忘れであろう。この日本に消費税などなかった時代のことを。自動販売機のコーラの価格がすべて100円であった頃のことを。

消費税3%がやってきた折り、1円玉が利用できる自販機などなかったがために、新機種の導入ではなく値段の設定を変更する方法による解決、いわゆる運用でカバーにより、我々は自販機でコーラを買うために110円払わざるを得なくなった。

そしてある日、消費税は5%となり、コーラの価格は120円となった。メーカーはすでに販売価格110円で原価のバランスを最適化してしまっていたがために、さらなる上乗せの消費税分が必要となったのである。いまや消費税は10%。コーラ1本130円の自販機を見かけることすらある。

そこで僕は考えたのだけど、仮に消費税を1%ずつ上げていたとしたら、我々はコーラ1本につき1100円を払う未来を手に入れることも可能だったのではないか。

夢のある話だとは思いませんか。

不安の受け皿

ほんと、いやになっちゃいますよね。

不安とはメタ恐怖

恐ろしいこと(恐怖)が発生する可能性が発生した時、人はそれを恐れます。恐怖への恐怖、つまりメタ恐怖であり、不安とも呼ばれるものです。だから不安は確率的恐怖であり、存在するとも、存在しないとも言えるわけです。

不安に打ち勝つ手段として、信じるという方法があります。恐ろしいことは発生しないと信じることさえできれば、その恐ろしいことが発生する確率は主観的には0ですから、その恐ろしい事が発生する可能性自体を恐れる必要はないわけです。不安の解消です。その確率が0に近いものであると信じる手段として、我々人間は時々、不安の受け皿を設定します。

少し込み入った話になりますから、用語を決めて整理しましょう。

用語の整理

たとえば、タバコばっかり吸っていると肺がんで死んでしまう...という不安があると仮定して用語を説明します。用語は全て僕が勝手に名付けています。よその界隈ではこの使い方は間違っている、ということは教えてもらえると、もっと良い命名が可能となり便利です。

ルート恐怖

恐ろしいことが発生する可能性自体を恐れる ... という不安の構造のうち、太字で強調した前者の恐怖、根幹側にある恐怖をルート恐怖と呼びましょう。
肺がんの例で言えば、死、とも思えますが、この場合は肺がんです。何しろまだ肺がんになっていない段階で不安になっているわけですから。そもそも人は肺がんにはなりたくないものです*1

メタ恐怖

恐ろしいことが発生する可能性自体を恐れる ... という不安の構造のうち、太字で強調した後者の恐怖、不安のことをメタ恐怖と呼びましょう。しかし漢字が同じだと読み分けにくいので不安とも呼びましょう。わかりやすさのため、あえて表記が揺れます。
肺がんの例で言えば、肺がんになるかもという不安のことです。簡単ですね。

ルート恐怖の発生確率

恐ろしいことが発生する可能性自体を恐れる ... という不安の構造のうち、太字で強調した可能性、確率の数値です。数値とは言っても、定量的に測定できるものでもないので、この記事で数値は扱いません。ただ、実態は確率という数的存在なのだと了承してください。それをルート恐怖発生確率と呼ぶことにします。
肺がんの例で言えば、肺がんになる可能性のことです。まんまです。

ルート恐怖の発生原因

ルート恐怖が発生するとして、その理由、原因のようなものを、ルート恐怖発生原因と呼ぶことにします。
肺がんの例で言えば何でしょう?遺伝的要因なのか、生活習慣なのか、放射線被害なのか、その辺は不明です。

f:id:karashi39:20200625094423j:plain

不安の受け皿とは何か

おろかなる我々は、社会において共有された巨大な不安が発生している場合に、複数存在するルート恐怖発生原因の中でも支配的な存在、不安の受け皿を設定します。何者かが恣意的に設定する場合もあれば、自然発生的に設定されてしまう場合もあります。そしてそれはなぜか基本的には人為的な存在です。

肺がんの例で言えば、タバコでしょう。他にもたくさん、肺がんになる要因は存在していますが、我々はタバコのみが肺がんというルート恐怖発生原因として支配的であると考え、タバコという発生原因を無くしてしまえばルート恐怖発生確率を0に近いものにできると信じます*2

すると、人々はその不安の受け皿を攻撃し、追い出そう、無くしてしまおうと動くことで、不安に打ち負けてしまいそうな自分の弱い心を支えることができます。もちろん、冷静に考えれば、不安の受け皿を排斥することによって得られるものはとくにありません。これはルート恐怖発生確率が0に近づくだろうと多くの人が信じる現象です。

不安の受け皿は楽観の一種

見方を変えると、他の発生原因を無視するための行動とも言えます。確率は、減らせば発生しないというものではありません。完全な0にならなければ、絶対に発生しないとは言い切れません。そのルート恐怖が降りかかってくる人間は、全体で見れば数字として小さくなるのでしょう。しかし、自分に降りかかってくるかどうかに関しては、あまり期待はできません。別の発生原因が残っている以上はいつかは発生しますし、むしろそれらに目をつぶってしまうことで、自分に降りかかってくる可能性は上がってすらいるかもしれない。

肺がんではない別の例をあげるとしたら、コロナウイルスにおける、音楽のライブハウスや、歌舞伎町です。東京もそうかもしれません。それらを無くしたからと言って、自分がコロナウイルスに感染しないなんて保証はどこにもないのです。

しかも、多くの人にとって必要なものはあからさまに発生原因の中で支配的だとしても不安の受け皿に設定されることを逃れてしまいます。コロナウイルスにおける通勤電車なんかまさにそうでしょう。でも、だからこそです。一番巨大な発生原因に目を瞑らなければいけないからこそ、不安の受け皿への攻撃は加速します。そうしないと不安で不安で持たないんです。

そして別の問題が

不安の受け皿に設定された側はたまったもんじゃない、というのがあります。設定された途端、排斥的行動のターゲットになるわけですから、彼らにとってそれはすでにメタ恐怖ではなく実体あるただの恐怖です。

我々はおろかなので、自分達に降りかかるメタ恐怖から逃れるために、不安の受け皿を設定して、そいつらに実体ある恐怖を与えることで、自分の不安を軽減しているわけです。ただのすげ替えです。

ヒトは不安の受け皿を作ってしまう生き物だと知ることに意味がある

かというと、怪しげです。不安の受け皿を作り出す人類は、そうしないとやっていけないから、そうしているのです。そうしないとやっていけない人に無理やりそれをやめさせたとしても、その人は不安で潰れてダメになってしまう、もしくはまた別のすげ替え先を無意識に設定するだけです。

でも僕はニュータイプなので、そういう心の動きをしてしまうオールドタイプたちを心の底からバカにしてますし、早く滅べばいいと思います。


*1:というか死をルートに設定してしまうとややこしいんですよ。全ての不安は死に通じていますから

*2:この記事では医学的な話をしているつもりはないので、タバコの話がしたいバカは帰ってくれ。不安の受け皿という現象の説明をしているんです

求められる喋り方が変わってきてるよねっていう雑な話

わかっていると思いますが、我々はどんどんリモート人間になってきているわけであり、そろそろわかってもらえたかともいますが、リモート人間ほどコミュ障は許されないというか、単純に不便です。

リモートワーカーっていうのは、ちゃぶ台の上にビルドした造花を並べていく仕事ではないわけで、誰とも関わらなくても良いコミュ障の理想郷ではなく、通信効率の悪い中で適切なコミュニケーションを実施できるコミュ強であることが求められる辛い場所な訳です。まあなので、在宅勤務も選べるのにも関わらず緊急事態宣言が明けた途端に出社してしまった人々は、うわべはどうだか知りませんが実態はコミュ障であることを暗に認めてしまったという感じなわけですね。

というわけで、リモート会議の話をしたいんですけど、おっさんの声って聞き取りにくいというか、誰が誰だかわからなくてしんどい。誰が喋っているのかわかりやすいような感じに会議サービスの画面が便利な感じになっている場合もありますが、そもそも会議中ってPCつかって議事録取ったり調べ物したり資料を見たり見せたりするわけなので、会議サービスの画面なんか誰も見ないのであった。

そして、誰が喋っているのかがわからないと、結構しんどいことがありますね。我々人類はだいぶ文脈に依存した喋り方をしがちなので、誰が言っているのかで意味が変わってくることも多く、誰がそれを言っているのかって重要なんです。誰が言ったかではなく何を言ったか、なんてのは机上の空論も甚だしく、そこにいる全員がそういう理想的な喋り方というか、話の組み立て方ができるわけじゃないのですね。

すると、経験的に気づいているかもしれませんが、やはり女性は良い。声がわかりやすいのである。聞き取りやすいことはもちろん、誰の声なのかもだいたいわかってしまう。女性ばかりの会議の時のことは知りません、経験がない。

あと、まるで大人とは思えない喋り方をする人がいたりすると、ボキャブラリーがやはり個性的なので、そいつが喋っているのだとすぐにわかる。これは案外便利です。ビジネスなので適切な大人の敬語を使いこなして欲しいなどという話はもう古いというか、わりとどうでもよくなってきている。言葉遣いみたいな瑣末なことを頑張って直す必要はないんじゃないかな。できるに越したことはないけども。

逆に、一切無駄のない喋りをする賢い感じの人は、リモート会議では弱いと思う。なんでって、音が途切れたり、ちょっとヘッドホンはずれちゃったりって、あるじゃないですか。頻繁にあります。すると、無駄のない話の部分部分がかけたことにより、何言ってるかわからなくなってしまう。今音途切れたからもう一回、いやそこじゃなくて、なんてやりとりありますよね。どこが途切れたかなんか喋っている方はわからないのです。だから最初からある程度までは途切れても良い話の組み立て方をしないといけない。

また、犬はここにきて大変うるさくなってきている。けっこう耳障りな音域と音量でランダムに吠えるので、会議の邪魔になってしまう。犬はものすごく可愛いので、僕もいつか飼いたいと思っていたけども、最近は諦め的な気持ちがあります。会議の邪魔さに関しては赤ちゃんも同様。人間の心があるなら、すでに家族である赤ちゃんや犬への怒りの気持ちは理性で打ち消したいし、新しい家族が加わるってのも祝福べきことなんですけど、新規で犬を飼うかってなると厳しい気持ちになる。

言いたいことがないので言いたいことがまとまってませんが、とにかく、我々は必要なコミュニケーションが変化してます。世界が変わったからです。とりあえず、これから何か飼うならハムスターにしようぜ。

モノサシの話

突如、このようなツイートをした。哲学者おにぎりシリーズ*1です。

小さな疑問

何かって言うと、売れているものが良いものだという話にまつわるあれこれです。今時であれば、数字が取れているものが良いものだとも言える。金が発生していなくても、ハートやらなんやらの数字が多ければ良い、ということになっているからね。

売れているもの = 良いものという発想は、完全な間違いではないものの、大変雑である。本当のところは

  1. 売れているものだから、良いものだとわかる
  2. 良いものだから、売れる

という、矢印の異なる二つの話をごっちゃにして、勝手にイコールに変化させているのであり、論理的には完全に誤っている。この程度のことは言及され尽くしている気もする。

とにかく、実績のあるものはイコール良いものと判断する考えには、疑問がある。

良いものとは何だったのか

これは余談である*2

井戸の中で暮らしている子供達には実感しにくいのだけども、クリエイティブなものごとの良さに対し、絶対の正解はない。ひとそれぞれが、異なるモノサシを持っている。

だから、自分のモノサシだけでクリエイティブをあれこれ評価するのが幼稚なのはもちろんのこと、多くの人に共通であろうモノサシでクリエイティブを語ることも若干幼稚で物足りなさを感じる。たとえばデッサンが整っているかどうかというのは、基本的には多くの人に共通であるモノサシだ。しかし、デッサンのレベルも描いている内容もまあまあ異なる3つの絵を並べて人類全員で人気投票をした時、もっともデッサンの整った絵に軍配が上がるとは限らない*3

作る側は、どのような集団のもつ共通モノサシに対してアプローチを行うかを考えているのであり、完全な特殊解(=個人)とも完全な一般解(=共通)でもない、何かを模索している。言い方を変えると、ターゲットを設定している。たとえば幼稚園児という集団にのみ限定して絵の人気投票をすれば、デッサンが整った石膏像の絵に軍配が上がることはない。優勝するのは明らかに、アンパンマンを描いた絵だろう。

つまり、どんな物差しが万能かを考えるのではなく、自分のターゲットを設定し、ターゲットである他人たちはどんな物差しをもっているのかをわかろうとしに行くのが、作る側としてより前に進んだ行為だと言える。

サロゲート価値

とにかく、測定が不可能である「クリエイティブの価値」にも優劣をつけたい場合があり、サロゲート価値として有名な「お金」をモノサシにする、もしくはお金のサロゲート価値であるなんらかの「数字」で価値を測定している。

サロゲート価値と言う言葉は、僕の思いつきなので、ググっても出てこないと思う。が、便利な概念なので、出てくる日がやってくることを期待しています。キティちゃんの公式体重は「りんご3個分」であるが、そういうようなものだと思ってくれたらいい。りんごで体重を測るのは、正確な体重計を持つ僕らからしてみれば馬鹿げた測定方法だが、あの世界にはまともな精度の体重計がないのだろう。

関連した話をすると、お金をモノサシにしない場合がある理由は簡単で、モノサシとして完全に狂っているからである。国ごとに統一されていないし、毎日少しずつ変わるし、誰かの意図で変動が容易*4である。だから、そういう精度の狂いが少ない別のモノサシを用意して測るわけだが、サロゲート価値サロゲート価値を測っている時点で測定としては怪しげである。そこには統計学的有意性という発想すらない*5

売れているものを良いと判断するしかない

もちろん、我々大人は現実をみなければいけない。精度がものすごく悪いとしても、価値を測定しない状況が避けられない以上、サロゲート価値を利用してクリエイティブの価値を考えていく他ないのである。考えないのはただの放棄だし、「サロゲート価値で測ることは絶対にダメなのだ」と言うのであれば、もっと精度が高いモノサシを教えて欲しい。僕もその点には同意する。

これはクリエイティブな価値に限らず、測定が難しい価値全てに共通することだ。たとえば学力というものもサロゲート価値の集合である。学歴も、偏差値も、学力調査も、頭の良さという価値のある側面、それもかなり小さな面積を対象に測定するサロゲート価値である。が、頭の良さというものをきっちり測るモノサシがない以上、僕らはテストでいい点を取った方が良いということになっている。これは現実的な回答であり、疑問は残るが、変更するよりは良い。

間接政治の選挙の票数だってサロゲート価値だ。クソみたいな政権があったとして、それはサロゲート価値に頼るしかない人類の限界が生み出したものでしかないので、その政権与党に投票してしまった人たちが悔やむ必要はない。

愛も測定が難しいが、サロゲート価値で測ることすらされていないので、トラブルが起きがちである。愛を測るためのサロゲート価値モノサシがあれば...と悩む人は多いはずである。僕ら大人はそれくらいサロゲート価値を基本的に認めて、この世界で生きている。

しかし、子供達をサロゲート価値で騙し続けるのは、未来のためにならないと感じる。サロゲート価値の精度の悪さは、いうなれば必要悪である。そのことを子供達に伝えなければいけない。僕らはダメなことだとわかっていながら何らかの数字を用いて、測定が難しい価値を測っているだけであり、数字で測ることはしかたなく行う間違いなのだ。

シュレディンガーサロゲート価値

シュレディンガーの猫は、毒ガスが噴霧される箱に入っており、毒ガスが噴霧されたかはわからず、猫の生死もわからない。しかしそれでは普通の話である。シュレディンガーの猫というものは、箱を開けるまでは猫の生死は物理的に決定されていない、とする量子力学的発想に対する嫌味*6である。

売れているか、数字が取れているかで価値を測るということは、モノサシを当てられたことがあるかどうかが価値の有無のスタートラインになってしまっている。モノサシがあたったことがないモノに価値がないのであれば、体重を気にする諸君は体重計に乗らなければ良い。それが馬鹿げた話であることはわかるだろう。観測するまで決定されない物理的状態が、感覚として現実に即していないことは明らかである。

クリエイティブなモノゴトの価値が、売れる売れないの土俵や、数字が付くつかないの土俵に立つまでは、良くも悪くもない。つまり価値は存在しない。というような感覚は、明らかに間違っていることは事実である。サロゲート価値が正解とする発想はシュレディンガーの猫のような話であり、逆でもある。シュレディンガーの猫は「物理的には正しいが感覚としては間違っている」という話なわけだけど、測定が難しいものの価値をサロゲート価値で測ることは「感覚的には正しい気がするけども物理的には間違っている」と思いませんか。

サロゲート価値というものの危うさはサロゲートつまり代替品であるという点だけでなく、価値をシュレディンガー的にしてしまう点も加わるのであった。しかし我々は、そういう重ね重ね危ういサロゲート価値に頼らざるを得ない現実を生きている。

僕らは何者なのか

一般的な言葉で説明をすると仰々しくなるものである。言い方を変えると、具体性を欠いた言い方をすると、偉そうに見えるものである。僕らは何者なのかなどと言い出すと突然哲学的雰囲気が醸し出され、折に触れて「コイツえらそーだな、オタクが」という気分を感じさせることができるが、ようするに何が言いたいかと言うと、あなたの仕事は何でしょう?ということです。

シュレディンガーサロゲート価値であるお金」、もしくは「シュレディンガーサロゲート価値サロゲート価値である何らかの数字」みたいなややこしいことをしてでもクリエイティブの価値を測らなければいけない立場なのかどうか。

必要悪は否定されるべきではないのかもしれない。だが、やらずにすむなら、それに越したことはない。

たとえば僕らは、視聴率というものを見かけることはあっても、血眼になって追いかける必要はない。番組の面白さというものを純粋に捉えていればそれでよい。気楽な立場である。視聴率というサロゲート価値を信奉するというような必要悪は、僕らはやらなくて良いのだ。

もっと言えば、視聴率というものは「お金というサロゲート価値に対するサロゲート価値である。実際に大事なのは、テレビ番組の面白さである。ここまでの話を理解できた人間なら、そう捉えてしまいそうなものだ。が、彼らに取って「お金」はサロゲート価値ではない。本質的な価値だ。お金を稼ぐためにテレビ番組つくってんだから。

便利な時代を活用して、必要に応じてサロゲート価値を否定しよう

プロでいるということは、お金みたいな曖昧模糊としたサロゲート価値を本質的価値と信じてやっていかなければいけない悲しい状態なのである。お金のためなのであり、それは生きるためであるわけだから、お金や倫理、新しさ、みたいなクリエイティブとしての価値みたいなものは置いておいて、実績のあることをやらないといけなくなるのも仕方ないのだ。

幸い、僕らは、プロでありながら素人でもあるということを許される時代に生きている。実績のあることをやることは、商売としては確実であるが、実績のないことをやる方がおもしろいと感じる変態に育ってしまったからには、クリエイティブな素人でいつづける、というのもまた一つの答えなのではないかな。


*1:おにぎりが言っていることなので、100%僕の意見というわけでもない、僕にも違う視点はある、という形にしている。観た人がどう捉えるかはわからないが...

*2:が、モノサシの話についてきていない人に対する補足の役割で書いている

*3:そもそもデッサンだけで優劣が決まるのは美大や芸大の入試くらいなものだろう。一生入試だけしていたいのであれば、デッサンだけを追いかけていれば済むので大変楽である

*4:たとえばとある大人数アイドルグループの中ではその優劣をCDに付属した握手券の枚数で決定するというやり方があるらしいが、超絶金持ちが乱入してきたら、一瞬で集団共通のモノサシをそいつ個人のモノサシで上書きされてしまう

*5:視聴率には統計学の発想が取り入れられているが、視聴率とお金の関連性や、お金とクリエイティブ的な価値の関連性に、統計学的な有意さはないということです

*6:実際、本当に嫌味として言われ出したことなのだが、嫌味であるという事を教えないやつが多すぎるため、わけのわからん寓話みたいな扱いになっていることがほとんどのようだ

ドラゴンボール超はテレビアニメのメタファーか

暇ができたので、ようやくドラゴンボール超を観ている。まだ観終わっていない。今、17号が何だかかっこいい感じで名乗りを上げてます。漫画も存在するようなので、いつか読もうと思っている。

リアルタイムでも何となくは観てたんだけど、「何だこれ面白いのか?(反語)」という印象であり、しっかり観る気になれていなかった。特に、全王というキャラにものすごく違和感があった。しかし、突然結論的なことに言及すると、全王視聴者のメタファーであり、他の登場人物もそういう感じになっている。作品全体が、テレビアニメのメタファーになっている。

鳥山先生がそういうつもりで話を作っているかはわからない(たぶん違う)けど、勝手にそういうことにして、そのつもりで観ると僕らみたいな原作世代も楽しめるんじゃないかな。そう思った。

4種類の登場人物

いったんこれを受け入れてくれ。

全王 ... 視聴者

無邪気な性格で子供そのもの、戦うシーンとかがないし全く強そうには見えない。繰り返し強調すると、ドラゴンボールの世界の中での強さを持っているようには見えない。ただ、全てを終わらせる能力を持っているため、神々からめちゃくちゃ恐れられている。悟空を気に入っている。

天使 ... スポンサー

基本的には神々のそばにいて、タテマエとしては神々に仕えているらしいのだけど、実態としては神々より強い、破壊神に対しては師匠でもある、口うるさくあれこれ要求をする、全王が全てを終わらせても天使は影響を受けない、などなど。なんだかよくわからない存在。

神々 ... 製作陣

色々な種類の神がいる。破壊神界王神界王といった、あるいみ組織的な構造をもった神々が、各宇宙ごとにほぼ同様に存在している。細かくは違うはず。悟空のいる第七宇宙では結構な人数の神々が死んでいる。神々の中でも、破壊神だけは人間たちに存在を知られているケースが散見され、また、恐れられている。

人間 ... 物語

悟空ベジータたちのことである。フリーザセル魔人ブウもそうなんだけど、種族は不明だけどもとりあえず知的生命体を全部まとめて人間だと思うことにする。

納得がいく(?)

たとえば、全王悟空と「友達になりたい」と言う。悟空を気に入って、悟空のする「おもしろいこと」を観ること、を欲している。物語を欲する視聴者を表している。気に食わなかったら、テレビを消すかのごとく、全てを終わりにする。

スポンサーを表す天使はひょうひょうとしていて、破壊神に対しても実質的には上の立場であるかのような振る舞いを見せる。基本的には神々という製作陣のそばにいるが、立場的には視聴者である全王の味方。人間という物語に対して干渉することは稀である。全てを終わらせた際に消えずに済むなど、あまり痛みを受けない立場であるのもスポンサーっぽさがある。

神々人間(物語)を管理する製作陣を表している。物語を作り出す力も、破壊する力も持っている。力の大会では、よりすぐりの物語を集めて視聴者に提示する立場である。製作陣なので基本的には物語には登場しない、つまり人間と戦うことはない。だから力の大会にも出場しない。

人間物語であり、二次元の存在なので、三次元の存在である視聴者スポンサー製作陣のことは通常認識すらできないレベルで興味がない。が、存在を認識した場合、基本的には恐れ、敬意をもって接している。悟空が宇宙を消そうとする全王に怒り出さないのは、今までの感覚であれば不自然だと感じるが、視聴者ならば仕方がない。

ここで湧き上がる疑問

とりあえず上のようなメタファーが行われていると受け入れることにすると、様々な疑問が湧いてくる。

たとえば、数種類ある宇宙はなにを意味するものなのか?力の大会とは何に該当するのか?鳥山明はいったい誰なのか?など。すまんが、僕もこれ以上のことは特に考えていないんだけど…

上のようなメタファーが行われているという前提で観ると、こういった疑問に対してあれこれと考える、という楽しみ方ができる。

たとえば、破壊神ビルス鳥山明なのではないか。過去、ドラゴンボールを終わらせたくてたまらなかった鳥山先生。終わらせる能力も持っているはず。しかし、各方面がそれを許さなかった。有名な話です。結局ドラゴンボールは鳥山先生の手を離れても続いたりしていたわけだけど、破壊神としては結構な苦労人(苦労神?)で好き勝手に破壊を行えない神であるビルスは、まるで鳥山先生のような感じもする。

もちろんそれでは説明がつかないことがたくさんあるので、鳥山先生ではない別の製作陣の何かを表しているかもしれない。とにかく、そういったことを考えて観るのも楽しいのではないかな。

僕らはまだドラゴンボールを楽しめる

正直、原作世代の僕らが、ドラゴンボール超を楽しく観ているという話はあまり聞かない。あの頃の気持ちでは見れない理由がたくさんある。僕ら側にも、あちら側にも。たとえば、なんか恋愛エピソードみたいなのが多いわけだけど、あれを観るのは結構しんどい。完璧な存在だったドラゴンボールに、ものすごく俗な要素がたくさんはいってきて、登場人物はいっそうバカ(悪い意味)になったようにも見え、大人からしてみれば馬鹿にされていると感じる内容の場合もある。ピッコロベジータが、人間臭い愛情でデレデレしているのなんか、見ていられるか。そう感じてしまう。

しかし、ドラゴンボール超メタファーの塊だと考えると、あの頃では考えられなかったような行動をして、心の弱さみたいなものに向き合い、解決していく登場人物たちは、大人になった僕らそのものについて言及しているのではないか。僕らは今こそ、クリリンに、ミスターサタンに、天津飯に、感情移入ができるのではないか。

正史という話もあるが、もうそんな幼稚な見方は卒業したい。漫画、アニメだけでなく、映画やゲームも加わり、作品世界は公式と非公式がわけられ、後から非公式扱いされた作品が大好きなファンは涙目になっている。正史に関する考察をするのは大変なだけで、暇さえあれば大学生でもできるのである。

鳥山先生がこれまでメタいメッセージを放つタイプの作家ではなかった(と僕が思っているだけかもしれない)だけに、これまでの感覚でいるともったいないと思う。今回少し僕の見方は変わったし、大人になった同世代の人たちも、この見方をすることでさらにドラゴンボールを楽しめると思うので、いまさらですが新しいドラゴンボールを楽しみましょう。

f:id:karashi39:20200614013604j:plain
画像の無断転用も嫌なので、僕の描いた落書きを記事のサムネにした

スポンジボブの擬人化イラストは段ボールのガンダムばかり

お絵かき界隈には、擬人化という遊びが存在する。擬人化はもともと「人間ではない何かが人間のような所作をしている」という意味で始まっている。が、現在は完全に人間のキャラクターを描き、そこに対象物の象徴的なコスチュームをいかに着せる事ができるかという、単なるコスプレ大会となっている。

もちろん、これは否定的な意味合いではない。実際、コスチュームプレイは素晴らしい。僕のような着衣フェチにとって、なくてはならない、ありがたさ100%の文化と言える...。僕はコスプレはしないが、僕はコスプレというものも表現活動と捉えている。なので、コスプレ型擬人化という遊びにおいて、いかに対象物を表現したコスプレをデザインできるかが一つの肝になってくると思うのだ。

ところで、故あってスポンジボブの擬人化をためしにググってみたところ、黄色い髪(おそらく金髪)の美少年のイラストばかりが出てくる。これはいったいどういうことだろうか。

スポンジボブってのは美少年だったのか?にわかには信じがたい。実際のところ僕はスポンジボブを数話みただけのにわかなのだが、僕にはとうていスポンジボブが美少年だとは思えないので、スポンジボブの擬人化で美少年を描くなど愚の骨頂、コスプレといってもスポンジボブという名前を冠しただけで何も表現していない別物ではないか。そう考えてしまった。一瞬だけ

しかし、我々ニュータイプは、そんな浅い理解をして「わかり合うこと」を放棄したりはしない。そう、我々はニュータイプ、コスプレと聞いてまず思い出すべきはこの男だ。

f:id:karashi39:20200606165033p:plain
ガンダムのコスプレをする男性

この写真はかなり有名なものだ。彼は、マジックでGUNDAMと書かれただけの段ボールを着こなすことで、コスプレ表現にプログレ的な風を吹き込んだ偉人である。そう、このコスチュームはガンダムなのだが、ガンダムの名前を冠しているだけ...というか、書いてあるだけである。

そう、スポンジボブ擬人化を美少年に描くというのは、彼と同じ表現方法なのだ。名前だけ冠してしまえば、誰もそれがスポンジボブとは思わないのに、誰もがそれをスポンジボブだと思う。しかもスポンジボブはもともと段ボールのガンダムのような形状をしている。そう、韻を踏んでいる

もちろんこのような描き方はスポンジボブだけにとどまらない。一つの確立されたジャンルなのだ、段ボールコスプレ型擬人化は。

f:id:karashi39:20200606171027j:plain